研修生の私が統計の謎を解いて一瞬だけ有名になった話

 この4月に日銀総裁に就任される高名な経済学者の方のニュースを見て、昔、この方のおかげで自分も一瞬だけ有名になれたことを思い出しました。「今だから話せること」です。

 30年ほど前、某シンクタンクに研修生として派遣された私は、経済の長期予測について研究していました。その際、家計貯蓄率を研究テーマにしていたのですが、経済企画庁総務庁統計局が発表する家計貯蓄率がそれぞれ逆方向に動いていることに頭を悩ませていました。経済企画庁発表の『国民経済計算』のものは下降トレンドで、総務庁統計局発表の『家計調査』のものは上昇トレンドで推移していたのです。なぜ同じはずの統計が逆方向に動くのか。学界でも問題視され、多くの研究者や研究機関が原因の究明に取り組みましたが解明には至らず、謎とされていました。

 二つの統計が逆方向に動いていたのはバブル期の80年代でしたから、下降トレンドで動く経済企画庁発表のものに錯誤があるのではないかと疑われました。複数の推計を組み合わせて作り上げる点も怪しいと思われていました。しかし、多くの研究者たちが原因の洗い出しに努めても、わかりませんでした。当時、新進気鋭の東大教授も挑戦しましたが原因解明に至らず、「家計貯蓄率動向の謎」というタイトルの論文を日銀の『金融研究』に発表し、原因不明と結論していました。

 この謎を解くようにと指導教官から指示され、私は原因解明に取り組むことになりました。ほとんどの研究者が経済企画庁発表の『国民経済計算』を様々な角度から調べて原因を突き止められなかったのだから、総務庁統計局の『家計調査』の方を調べてみようと考えました。それまでこの方法が試みられなかったのは、『家計調査』が世帯へのアンケート調査を単純にまとめたものであり、人の手が加わる余地がなかったからです。そこに盲点がありました。

 当時、『家計調査』が調査対象としていた世帯は、主に勤労者世帯でした。勤労者世帯を対象にした調査が、バイアス(データの偏り)を生んでいたのです。高度経済成長が鈍化した80年代以降、成長鈍化の陰に隠れて高齢化が進行し、勤務を引退した無職世帯が増え始めていました。そうした世帯は収入よりも支出が多いですから、貯蓄率はマイナスの水準になるところが多かったのです。その数字は、勤労者世帯だけを調べても出てきません。

 また、勤労者世帯を対象として実際の収入と支出を調べる方法にも問題がありました。80年代以降、勤労者世帯の持ち家率が高まっており、家賃支払が支出に含まれないようになりつつあったのです。さらに配偶者がパート勤務などをするケースが増え、税・社会保障負担のない収入が増えてもいました。これらは貯蓄率を高く見せる方向に作用します。こうした結果、『家計調査』の家計貯蓄率は上方バイアスがかかっていました。このバイアスを修正すると、両統計のトレンドは一致しました。

 謎を解いた私は、論文にまとめて発表し、日本経済新聞に記事を書きました。私の論文は『日本経済事典』『経済統計論争の潮流』『戦後日本経済論』で紹介されました。その後、『経済白書』が白書の分析の結果という形でオーソライズして発表し、二つの統計の乖離の問題は決着しました。

 4月に日銀総裁に就任される教授も30年前に「家計貯蓄率動向の謎」に挑戦されて緻密な分析結果を残されました。その研究成果からもヒントをいただき、私は謎の解明に至ることができました。お礼を申し上げるとともに、コロナ禍後の日本経済を良い方向に舵取りしてくださるようお祈りいたします。