紅葉屋斬り込み事件にみる名古屋の起業家精神

 名古屋の人々の起業家精神を象徴するエピソードが、紅葉屋斬り込み事件(1866年)です(城山三郎創意に生きる 中京財界史名古屋商工会議所復刊)。
 紅葉屋は、江戸時代末期(1829年)に名古屋の鉄砲町(現在の本町通)で創業し、練油や白粉、紅などを扱う雑貨店を営んでいました。1851年に養子で入った三代目冨田重助により、西洋舶来の毛織物を扱うことで急成長しました。横浜で商品を輸入商から直接買い付けて、超快速船で名古屋に送ることで大量仕入・大量販売を可能にしたビジネスモデルは、斬新なものでした。1日の売上が千両に及ぶ日もあったということです。
 ところが、生活困窮、物価騰貴は洋物輸入によるものであると主張する尊王攘夷派の藩士たち(金鉄組)が、紅葉屋に押し寄せて廃業を迫りました(1865年)。冨田重助は、金鉄組に廃業を約束するとともに、在庫を売り切るまで商売を続けさせてほしいと交渉して、約定書と500両を渡し追い返しました(沢井鈴一『名古屋本町通りものがたり』堀川文化を伝える会)。
 その夜、重助は洋物の商いが止められると宣伝して回りました。翌日からお客が殺到し、舶来の商品が飛ぶように売れました。横浜から仕入れを続けて販売したため、在庫は尽きませんでした。それに怒った金鉄組が紅葉屋に押し込み、商品をすべて斬りつけて路上に投げ出していきました(1866年2月)。この斬り込み事件で紅葉屋の名が広く知れ渡り、金沢、冨山、滋賀、静岡などからも注文が来るようになりました。
 紅葉屋を起こした冨田家は、その後、山林や新田の開発、金融(明治銀行、福寿生命)、鉄道(名古屋鉄道)など様々な分野に進出しました。今は東朋テクノロジー(株)という検査装置メーカーを経営しています(日本経済新聞社編『ナゴヤが生んだ「名」企業日本経済新聞出版社)。経営理念は「創意躍動 創意に生きる」です。創意をもってビジネスに挑戦していく、名古屋の「名」企業がここにあります。